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野の花あったか話



   第349回       至急禁酒






 



 
 診療所はいつも緊迫しているわけではない。一日を振り返ると、誰かがどこかで笑っている。

 外来の診察室。「先生、わし、まだ生きれるかな?」と92歳の農村の女性。総合病院でがんの手術を受けて予後1年と言われ3年になる。全て順調に経過。「下手(へた)すると、まだまだ生きるかも知れませんぞ」と言うと「はあ?」と顔を近づける。繰り返すと手を取り「先生、下手してください」と大笑い。前の廊下を別の92歳の女性が「トボトボ長生きもえらいでー」と歩いていく。

 往診に出る。寝たきりの女性を診察する。終えて出ようとすると息子さん「こいの病(やま)いの薬に使う注射器1本、分けてもらえませんか」。恋の病い?「どなたに
?」と聞いた。そのおうち、渡り廊下の下に大きな水槽があり、錦鯉が20匹いる。病気予防の薬液を注射器に吸い、薄めて水槽に入れるらしい。「鯉の病い」だった。次の往診先には、難病で寝たきりの奥さんを30年看病している、ユーモアのあるご主人がいる。「先生のユーキャンの講演のCD聞きました。私の血液型はAB」。

 別の日の外来。「子宮に筋腫」と、撮ったCTの説明をするとその女性「すみません、分かるんですね。缶ビール3本、焼酎2合、とハイボール。やめます、至急に禁酒します」と謝る。シキュウもキンシュも勘違い。
 笑いは日々の潤滑油。笑うどころでない場を渡るにも、笑いで貯めた潤滑油が支えになる。






( 2025年6月9日朝日新聞掲載。2025年6月3日記)





この原稿は、朝日新聞鳥取県版連載の『野の花あったか話』(徳永進)のオリジナル原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。

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