「夏井健さん、どうぞ」。しばらくして診察室に男性が入ってきた。どこかで見たような。「高校の同級生です」。えっ、ああ夏井君だあ。面影がある。紹介状には厳しい情況が記されていた。「入院希望ですか？」。夏井君は手を横に振り、苦笑い。「その節にはよろしく」と言って出て行った。
音沙汰なく２ヵ月。９月の朝、慌てた声で奥さんから電話。「主人、今朝から変で何言ってるのか分からないし、右手足の力がない」。脳に何かが起きていると思われた。救急車で総合病院に向かってもらった。１週後「腫瘍が関係した脳梗塞、緩和ケアが主体です」と担当医から電話。ぼくらの診療所に転院に。「〇△×」「たのむ」「×××」「うん」。失語症。なのに「おーい、おーい」の大声が昼も夜も病室から上った。
奥さんに病状を伝え、高校生のころの温厚な人柄の話しもした。「大学生になってから変わったんです」と奥さん。学生運動、職場を転々、酒に溺れ、挙句の果てにギャンブル依存。別人かと思うような変遷。
「おーい」は看護師が病室に行けば止まった。ぼくが行き、語りかけ、肩を抱くと静かになった。皆に好かれる人に戻った。病気は戻らず進行。食べれず、発熱し、衰弱していった。
ある日、詰所に奥さんからの手紙が置いてあった。「終末期なのは本人も自覚していました。なぜここか。それは先生に高校２年の時のお礼を言うためでした。－わしが盲腸、腹膜炎で入院した時、徳永がなあ来てくれて、ノートを見せてくれたんだ－と嬉しそうに言ってました」（抄）。
56年前のこと、記憶にはないその光景。お礼にいのちの場を決心した同級生に頭が下がった。手紙を読んだ看護師が言った。「先生にも優しさって、あったんですねえ」。 |
