温子(よしこ)さんは72才。独居。時々腹痛。その都度救急車で総合病院。「異常なし」で帰される。遠い親戚の人から「認知症ですわ、頼みます。亭主はそちらで死にました」。入院になった。肝硬変もある。進行は緩徐。量は少ないが食べられる。手すりを持たず、マスクをして一人でソロ、ソロと廊下を歩く。歩いても音がしない。空気が移動するだけ。ズボンは足首から膝まで折り上げ、早乙女(さおとめ)姿。小柄、詰所のカウンターの上に顔が一つ出るくらい。無口、に近い。
朝早く、まだ誰も起きてないころ、ラウンジで横になってる。早出の助手さんがびっくり。昼下がり、廊下の向こうのベランダに立っていることもある。ニコッと笑う。残歯が見える。ポストの前にそっと立ってることもある。真夜中、カウンターの向こうに顔が一つ。当直の看護師、「キャー」。「寝れん、腹減った、なんかない？」。到来物のカステラがあった。蒸し暑い夏の夕暮れ、屋上に上がっているといつのまにか隣りに。西空を見て「真っ赤、きれい」。「ご主人は釣り、好きでしたね」「ありゃ釣りキチ、釣りばっかし」。
救急入院があった。ストレッチャーで患者さんが運ばれた。廊下のニッチの椅子にちょこんと坐っていた。別の部屋で患者さんが亡くなる。家族が病室に駆け込む。泣き声が漏れる。反対方向にゆっくりソロ、ソロ。
１日に３人の方が亡くなった。葬儀屋さんが迎えに来た。白い布に包まれた患者さんを乗せたストレッチャーがエレベーターに入っていった。「忙しいなー」。自室の戸からじっと見ていた。
「あ、ここに」と小走りの看護師さんは温子さんを見つけて喜ぶ。幸せを感じるそうだ。温子さん、ポケモン。いや座敷(ざしき)童子(わらし)。診療所には座敷童子、今だけじゃなく、ずっと昔から住んでいるような気がする。
|
