徳永進_エッセイ

野の花あったか話



第２３３回　　　放っとけば生える




	７月の雨の正午、10件の往診を終え、ぼくは訪問看護師に総合病院の玄関まで送ってもらった。医者の僕も玄関をくぐると患者に変わる。　まずは新型コロナウイルスのＰＣＲ検査。陰性と判明すると５階の病室へ。病衣に着替え、点滴。次は尿道から膀胱に管の挿入。「ゼリーたっぷり」と患者のぼく。「はいっ」と旧知の師長。「ここが少し痛みます。はいっ、入りました」。いつもは入れる側、されてみて知るクルンの痛み。「ストレッチャーで心臓カテーテル室へ移動します。これ１錠」と前処置の安定剤を渡された。　「さあ、やりましょう」と担当のドクター、気合が入ってる。こちらは俎板の上の鯉。冠動脈への処置は右鼠径部ではなく右手首ですることになった。「ここ狭いね。風船で圧かけよう。ここはステント留置。冠動脈の流れ回復してますね」。相棒の医者とのやりとり。１時間くらいかと思ったが、３時間が経っていた。　戻った病室は高度治療室（ＨＣＵ）。１泊した。次の日、５階の一般病室に戻った。持参してた本は、サン・テグジュペリの「星の王子さま」。読みながら思った。王子さまは宇宙の小さな星の上にポツンと立ってたけど、今や診療所は細い冠動脈の上にポツンと立っている、って。　２泊目の夜、師長が訪室。「無事で何より」と労(ねぎら)った。ぼくはパンツをずらし、自分で剃毛した鼠径部を見せ「これどうするー」と言った。「やめて下さいこんな所で、若いナースもいるのに」と顔をそむけ、続けた。「大丈夫、放っとけば生えますから」。さらに「なんなら私、リアップ（育毛剤）買ってきましょうかー」。「えーっ、それって鼠径部じゃないんじゃないー」とぼくは負けじと抵抗。３日目の朝脱走し、診療所の玄関をくぐり、医者に戻った。


	（ 2021年8月2日朝日新聞掲載。2021年7月20日記)

	★この原稿は、朝日新聞鳥取県版連載の『野の花あったか話』（徳永進）のオリジナル原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。

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