髭がのびてきた94才の一人者の患者さんがいる。慢性肺気腫、酸素が手放せない。入院した当初は自分で電気かみそりが使えた。それから手や足の力が少しずつ弱った。電気かみそりが重い。看護師が「お髭、剃りましょうか」と声を掛けると、「いい、あすにする」。明日になって「じゃあ髭、剃りましょうか」と看護師が言うと、「いい、あすにする」。髭は日に日にのびる。その次の日も次の日も「いい」は続き、「あす」は続く。
ご飯は坐位で一人で食べれる。夕方、回診すると「おいしかったです」と好々爺の顔。「今日は調子いいです。おとといはえらかったー」と笑顔。昔はヘビースモーカー。息切れや喘息発作が何度もあった。最近の吸入薬や心不全治療薬で有難いことに強い発作はない。次の日の夕方の回診でも「今日はいいです。おとといはえらかったー」とご老人。次の日も「おとといはえらかったー」だった。いつも「今日」はよく、えらいのは「おととい」限定。「今日はいい」に安心するのだが、調子のよかったその今日も、２日経つと「えらかったー」に変わる。毎日えらいのか、毎日調子よいのか、どう判断すべきか。呼吸音や血液検査では捉えられない老人の身体と心模様の微妙さがあるのだ、と知るべきか。
入院も５ヵ月を越え、退院をしなければならなくなった。年金生活、借家の家賃も入院費も払うので、やりくりが大変。「支払い、分割に願えませんか？」。退院の日程を相談した。「考えとります。今日は無理で、あさってに」。その２日後も「あさってに退院を」と続く。あさつては続き、あさってはこない。
あす、おととい、あさってなんぞの時間軸には縛られれない老人の見事さに、脱帽する。 |
