12㎞離れた町へ往診に行く。患者さんは80才の元職人さん、主訴は下血。畑と校庭が見渡せる居間の窓際に薄い布団を敷いて寝ている。目を閉じ、口はへの字。「いかがですか？」と問うと目を開け、突然「安楽死、おねがいします」。「大腸ファイバーは」と言いかけると「しません、必要ありません。点滴もしません。スイスに行って安楽死した日本の女性みたいにして下さい」。隣りにチョコンと座る奥さん、「スーパードライの大瓶２本とゆで玉子２個が一日の食事です」。何と言う組合せ、ちょっと笑った。直腸診だけさせてもらった。腫瘤が触れる、出血している。
「いくぞ、はい、おーい」。校庭から元気のいい声がする。その声を聞きながらなじんだ布団に横たわる。人間も動物、立派なベッドに寝るより、ほら穴のねぐらで丸くなる獣のようになるのが楽なよう。
別の日、「一時間毎のトイレ通い、情けない。安楽死頼みます」。往診を始めて一ヵ月が経った。やせが進んだ。玄関で奥さんがプラスチックの箱の中の虫にエサをやっていた。「鈴虫です。この人、13年間飼ってました」。ビールは飲めなくなった。「楽にしてあげた方が」と、ポツンと奥さん。「もう少し、この形で」と長男。皆の気持ちは揺れる。訪問看護師は薬剤師に、肛門部に塗る止血用軟膏の作成を依頼する。軟膏ができ上った。「そんなことより、安楽死を」と硬い顔。
校庭からは生徒のいつもの元気な声。衰弱は進む。日曜日も往診し皆と話し合う。衰弱はさらに進み、血圧は下がる。「アンラクシ」と弱い声。２ヵ月が経った夜中、呼吸が止まった。訪問看護師と駆け付けた。家族の顔に穏やかさがあって、やれやれ。
「リーンリーン」、鈴虫の声が家中に響く。安楽死至難。 |
