89才の男性。「考えとります」と口を結ぶ。「がんは国民病、皆がなる、負けちゃいけんと思っとります」。このごろ、この年齢の人たちが増えた。90前後世代。
若いころは郵便局勤務でバンバン働いた。「面白かったです、何もかも。顧客は付いてくれるし、仕事終わってからの一杯が格別」と言うと横の奥さんが「一杯どころか」と手を横に振り大笑い。「黙っとれー、これは認知症が入ってますけえな」と抵抗するが、軍配は奥さんと思われる。「わしはしごが好きで、麻雀も。もうそんな時代は来ません」と、やっぱり。
余病の腎不全の方が進む。両下肢に浮腫、血液検査では尿毒症。透析以外に手はないが、全身状態を考えると適応なし。「ついこの間までグランドゴルフ、責任者でした。人間って脆いですな」。「ですよ」と奥さん同意。
別の日、回診で病室に入り診察し終えて、ベッドにちょこんと座ると、89才のその男性が語った。「先生、いずれ臨終でしょう。臨終です。分かります。その時、何と言おうと考えとりました」と口を結ぶ。「いい人生だったと思います。娘に感謝です。ええ子に育ってくれました」。たまたま嫁ぎ先の広島から、看病で帰ってきてた娘さんが言った。「どうでもええ子、でしょ」。「カカカッ」と奥さん、そして部屋中に笑いが起こった。「ありがとう、この一語でいいと思いました。家族にも友人にも、人でない物にもありがとう。この一語を言って去りたい」。「奥さんには？」と聞くと、「女房？あれとは長年の腐れ縁。いちいち言葉で言わんでも所作で分かる。手握るかも知れませんぞ。決めとりません」。
「カカカッ」と奥さん。娘さんは話しに引き込まれ、目元をぬぐう。
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