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| 野の花あったか話 |
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| 野の花あったか話 |
第10６回 母のたばこ |
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| 母親の愛情って、時に深い。 「先生、息子を診てやってもらえんかな。アルコールの依存症で、夜どの病院に行っても、飲む患者は診んって叱られて」と電話が入った。トボトボした夜の救急病室の光景が浮かんだ。その息子さんが外来に来た。57才。腹水でおなかはパンパン。黄疸もでている。入院、と決めた。 「助かりました」と母親。息子に歩く力なく、正月から寝たきりだったようだ。なのに、「酒！」と息子は大声。母親は「一杯だけ」と枕元に運ぶ。「入院したら酒もタバコもお預けだぞ」と母親。いたずらっ子を叱るようだった。 回復の見込みはない。非がんだが、アルコール性肝硬変の末期。死は遠くではない。離婚されていた。子どもたちは一人を残して、お母さんに付いて家を出た。最後の子が家を出て家は二人。酒は止まらなくなった。患者さんはおとなしい人。一ヵ月が経った。 「カエリタイ、イエ」とか細い声。谷の奥の村の家。空気も水も新緑もきれい。「わしの方が倒れそうだわ。この子の希望なら、でも看たりますわ」。訪問看護師が応援することになった。 食べれず、飲めず、吸えず。衰弱は進んだ。体はやせ、腹水不変、黄疸増強。母親がわが子のオムツを交換し、看護師は足浴や洗髪を、ぼくは綿花に酒をしませ口腔ケアをした。ある日の午後の往診で、かすかなタバコの匂い。「この子、吸う力がのうて、わしが代わって吸って、口元に吹き込んだりました。そしたらわしがムセて」。88才の老母の技アリの一本に感服した。 他界されたのはその二日後の夜の10時。母親が一人、息子の最後の息を見届けた。お別れの水はお酒。家のまわりの田んぼからカエルが一斉に空に向かって鳴いた。澄んだ夜空に上弦の月と輝く木星。良き旅を、と祈った。 |
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| （ 2016年5月21日朝日新聞掲載。2016年5月16日記) ) |
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| ★この原稿は、朝日新聞鳥取県版連載の『野の花あったか話』（徳永進）のオリジナル原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。 |
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