徳永進_エッセイ

野の花のあったか話



第２１回　俺、いけるよなあ




	人ってすごいな、と思う。本人だって、そんな言葉が自分から出ていくなんて思いもしなかっただろう。　40代のがんの終末期の男性。突然の発病、発見。詳しい説明を総合病院で受けた。根治的な治療法はもうなかった。冷静には聞けない。奇跡を信じたい、希望を持ちたい。誰だってそうだ。　こまめな対症療法をすることになる。痛みにモルヒネ系の薬、だるさ、食欲不振にステロイド。活気が戻る、食欲も。ラーメンにコロッケにハンバーグに餃子、が食べたくなる。食べれた、でも数口。時にひと口。抗がん剤は飲んでいる。でも何だか治っていく気がしない。トイレや風呂までが歩けなくなる。座ることさえ一苦労。こんなこと今までに一度もなかった。　往診と訪問看護が始まって50日が経ったころ、診療終え帰ろうとするぼくの目を捕えて、彼が問いかける。「先生、俺、いけるよなあ」。彼の目はすわっている。嘘を拒む目。「いつまでがいい？夏？クリスマス？」「そんなんかあ」「夏も難しいかなあ」「だめかあ」「どれくらいがいい？」「80才」。　背をさする妻に、「知っとった？」と問う。呼吸数が早くなる。「ううん、でもがんばろう」。間が空き、「ママ、ごめんな」。中２の一人息子に向かって「な、お前、ママのこと頼むぞ」。涙を浮かべ息子は頷く。「ママ、ありがとう。最後のとき、ママの腕に抱かれて終わりたい」。　黄疸も出てきて、10日後の５月の夕方４時過ぎ、いよいよの時が来た。「アリガト、アリガト」。家族の一人一人の手を取り、医療者の一人一人の手を取り彼はそう言った。「センセ、オワリニサセテ」。彼の望み通りに奥さんが背中側から彼を抱きかかえた。夕方、死は来た。　死の前に彼が放った言葉と表情に、ひれ伏す。


	（ 2013年朝日新聞掲載。5月13日記。）

	★この原稿は、朝日新聞鳥取県版連載の『野の花のあったか話』（徳永進）のオリジナル原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。

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