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野の花の人々



   第31回 あのもん
 



  残された日が少なくなると、誰もがそんなに食べられない。でも、何か欲しくなる。
  「何か食べたいものありますか?」とナースが尋ねる。「そうですねえ」と言って、患者さんは考える。「何だろうね」と天井を見上げる人もいる。関東だとざるそばは人気がある。そうめんやうどんを希望する人は多い。めん類は確かに食欲がなくても口にしやすい食べ物だ。梅干しにノリのつくだ煮は好まれるが、毎日は難しい。食べることって、とっても大切。命ある限りの重要問題だ。つくづくそう思う。
  カレー、鮎の塩焼き、ちらしずし、刺し身、あっさりスープなどは人気がある。要望として出されたメニューは、厨房さんが全力をあげて病室に届けるようにしている。いつだったか、四十歳の末期の患者さんが「ハチの子ご飯が食べたい」と言った時、実力不足で願いをかなえてあげられなかった。
  スイカ、モモ、ブドウにメロンなどの果物は病人の口やのどを潤す。かき氷は、夏は一段と人気だ。一番人気は宇治金時ではなく、イチゴやレモンやみぞれでもなく、ただ、素のかき氷。
  「あのもんが食いたい」。末期の七十七歳の千太さんが言った。千太さん、「先生、あのもんだけどな」「看護婦さん、あのもん、取ってくれんか」と、すべてを「あのもん」で済ませる。
  「あのもんって何?」とナース。「暑いし口乾くし、あのもん食いたい」「スイカ?」「違う、白い冷たいもん」「カルピス?」「違う、白い泡みたいな」「あっビール、ありますよ」「ビール違う、口でとける、白い」「あ、かき氷?」「違う、くねくねって、甘い泡の」「ソフトクリーム?」「それだ、それが食いたい」。「先生、ソフトクリームですって」
  ソフトクリームなら手作りのおいしい店を知っている。夕方の外来までは時間がある。車でひとっ走り。「すいませーん」「いらっしゃい」と昔ながらの店のマスター。「ソフトクリームを」「何本しましょう」。「患者さんにだけですかあ」とナースたちのせりふが幻聴として聞こえてきた。「十本」と答えた。
  「うまい、こりゃ絶品だ」。千太さんが亡くなったのは五日後だった。






この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目・人の目 野の花の人々」(徳永進)という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。

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