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第５１回 二十六夜の月
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胆汁ドレナージチューブをつけて、七十歳の子宮がん末期の女性が十日ぶりに自宅に帰ってきた。ほっとした顔のご主人と娘さん。
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「お久しぶりー」と手を上げると、患者さんニコッ、でも弱々しかった。庭の木々が見えるように、とご主人がガレージのさくを低くしていた。ツワブキが鮮やか。
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「先生、遅くにすみません。母の息、苦しそうなんです」と娘さんが電話してきた。鳥取の町は夜の七時をすぎると、意外と早く、患者さんの家にたどり着く。呼吸数も速い、脈も速い。胆汁は順調に出ているが、尿の出がすこし少ない。
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点滴のスピードを遅くする。採血をする。強心剤を静注する。診療所で調べると、体が酸性に強く傾いている、貧血であることが分かった。
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「なーんもしない、という選択もあります」「私たちもそのつもりだったんです。でも一日でも長く生きてほしい、父も私も同じ気持ちで」。誰の心も揺れ動く。
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「先生、朝早くにすみません。母、夜中一睡もしていないんです」と娘さん。診療所の外来が始まる前、訪問した。点滴の中に鎮静剤を加えた。今年の初冬、鳥取は雨の日が多かった。その日、日が落ちて雨の街を往診していると、携帯電話が鳴った。
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「先生、母の状態、おかしいんです」と娘さんだった。たまたま近くを走っていたので、二分後に到着。「早い、どこから来られました？」「空から降りてきました」
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血圧が下降してきた。いつもなら何もしない。「妹が広島から、孫が大阪から帰ってきます、なんとか」と娘さん。昇圧剤を点滴に加えた。沈静させること、昇圧させること、点滴液は矛盾をかき混ぜる。
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妹も孫も患者さんの顔を見た。「おかあさん」「おばあちゃん」。二人は手を握った。孫は大切な発表会があって、翌日帰阪。「先生、夜中にすみません。母の呼吸、大きくなったり小さくなったり、脈も私たちには分かりにくくて」
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夜中の二時。真っ黒の空、木枯らし、小雨。患者さんを皆が囲んでいた。脈は十分打っていた。「今日は、大丈夫です」というぼくの言葉で皆がほっとした顔になった。
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外に出ると、空が一変していた。澄んだ空に満天の星。正面にオリオン、東の山端に下弦を少し過ぎた二十六夜の月がぽっかり。
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★この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目人の目 野の花の一日」（徳永進）という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。連載タイトルと毎回のタイトルは、サイト独自に付す場合もある旨をお断りしておきます。
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