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第５０回 そうっと…
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「先生、母を診てもらえませんか。子宮がんです。最期を家でみとってやりたい、父も娘の私もそう思ってるんです」
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ありがたい、と思って往診させてもらった。閑静な住宅街の静かな日本家屋。そうっと、戸を開けた。居間の広いベッドに七十歳の患者さん。
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「ここ三日、全然食べてません」と憂い顔のご主人。ぼくは「はじめまして」とあいさつした。患者さんはニコッと笑った。「こんな顔、私たちには見せないのに」と驚き顔の娘さん。
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笑える力があるということは生命力がまだあるとぼくは判断。「点滴のラインをいれてみましょうか？」と聞く。患者さんは首を横に振る。「これは痛いことが大嫌い、でも入れてもらいましょ、ね」とご主人。
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すべての薬と医療行為抜きの看護や介護、生活のみでの死。これもぼくの心の中に、あこがれとしてあるが、実際には薬や医療行為が助けになることが多い。
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穏やかな初冬の午後の日差しが居間に入っていた。ぼくはそうっと高カロリー輸血用のカテーテルを首から挿入した。調べると、強い貧血があったので、輸血もした。「元気になりました、先生」。憂い顔のご主人に明るさが戻った。
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五日後、黄疸が強くなってきた。がんが胆管を圧迫している。拡張した胆管にチューブを入れ、胆汁を外に出さねばならない。
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患者さんは首を横に振る。やるなら今、とぼくは判断する。ご主人の説得で総合病院に入院となった。
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臨床はいつも選択を迫られる。病状、病期によって選択は変わる。本人か家族かによっても選択は変わる。家を選択してきたのに、病院を選択するようなことにもなる。
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「先生、母が変なんです。分からんことを言って、私たちの言うこと、聞かないんです」と娘さんから診療所へ電話が入った。胆汁が出るようになって、次の処置を勧められたが、患者さんは首を横に振ったそうだ。
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胆汁用のチューブをつけたままでも、家に帰って療養できる、と病院の医者から説明されたら、首を横に振って、病院のままでいいと返答したそうだ。「私も父も、病院じゃなく、家で母をみとってあげたいんです」
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本人は病院を、家族は家を希望する背景にはそれぞれの思いがある。ぼくは夜、そうっと訪室する。患者さんは眠りに落ちたとこ。ぼくはそうっと退室する。
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★この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目人の目 野の花の一日」（徳永進）という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。連載タイトルと毎回のタイトルは、サイト独自に付す場合もある旨をお断りしておきます。
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