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野の花の一日



   第46回 2つの教え
 


 東京の上野で精神科クリニックを開業している浜田晋さんに「心を聴く」という講演をしてもらった。死を前にした患者さんの心を聴くのはとても難しい。
 < ただ黙って患者さんの傍らにいて、待ち控える >ということと、< 患者とのやりとりはただ水に流して忘れる >という相反する二つの教えが心に残った。
 浜田さんが帰京した翌日の初冬の午後、診療所の廊下に3号室から大声が漏れ出た。「おーい、おーい」。入院が長くなった花島弥太郎さんだ。「起こしてくれー。ばあさんは、おれを見捨てて帰っちゃった。たばこ一本吸わせてくれー」
 目が何かに取りつかれたようにランランと輝いている。家の人が誰もいなくなって一睡もせず、いつになっても眠気は訪れない。ゆっくりと成長する腎がん、骨転移、寝たきりである。
 寝たままで、たばこを吸い、気がおさまるかと思ったら「殺してくれ、さあ殺してくれ」。これも今に始まったせりふではない。「じゃあ、ここから出してくれ、閉じ込めるな」と、どこかに拘禁されているらしい。せん妄状態だ。「ビール、ビール」。百ccビールを飲む。ぼくは同じ高さの目線で話しかけてみる。
 「ばあさん、好き?」「きらい」「先生、好き?」「きらい」「じゃあ看護婦さんは?」「きらい」「子どもさん、息子さんと娘さん?」「きらい」「どうしてですか」「みんな裏切る」「ポチは?」「好き、あいつは裏切らん」
 それから「警察呼べー」が始まり、「おーい、おーい」に戻り、スタッフも入れ代わり立ち代りのタジタジの対応、苦戦。しばらく放置。声がしなくなったので、心配してそうっと3号室をのぞくと、「分かった、悪かった」と、しおらしくなってた。
 「死んでも人生後悔ない?」と、一発カウンターパンチを弥太郎じいさんに食らわす。「ないわい」とまた目が輝く。「曲がったことはしとらんわい、人を裏切ったことはないわい。それだけは言える」と断言した時だった。
 急に顔がしわくちゃになって涙があふれた。「四十六年間のうち、魔が差して、二回浮気した」。ぼくはじいさんの手を握って、「そんなん、気にせんでええ、少ない」と励ました。
 若い看護婦さんはきょとん。「えっ?」と難聴の弥太郎さん。「警察呼べー、警察呼べー」にまた戻った。夜勤の看護婦さんも涙と叫びの洗礼を受ける。
 浜田さんの二つの教えを、ぼくは反すうする。


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この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目人の目 野の花の一日」(徳永進)という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。連載タイトルと毎回のタイトルは、サイト独自に付す場合もある旨をお断りしておきます。

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