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第３０回 自転車の夢
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「自転車に乗っていいでしょうか？」
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がんを抱えている見山先生が回診の時にボクに質問した。体の酸素値はまだまだ低いのに、この診療所に来てから先生はなぜか明るい。
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「私、当初､死ぬかと思ってつらかったのですが、がんとともに生きてやろう、と思い直したんです。」誰もが言えるセリフではない。先生は笑いながら、せきをしながら、そう言う。元小学校教師、七十一歳。京都在住。自転車かあ、とぼくは考える。乗りたいだろうな。風が頬をを切り、街路樹の下を走り、家々が後ろへと通り過ぎてゆく。気持ちいいだろうなあ。
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ぼくは思い出す。旅先で自転車に乗って走ると、その町の印象はグーンと違って、親しみがわいた。外国へ行ったときも、自転車で走ると、異国の地が身近に感じられた。自分の足でこぎ続けることで、体が地図を知り、店を知り、人々や風景を知った。自転車は不思議な乗り物だ。
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でも、と思った。見山先生がフラフラッとして倒れたらどうしよう。骨折し、寝たきりとなったら、すべてが水の泡。責任はぼく。「うーん」とうなりながら、この局面をどう打破するかを、ぼくは考える。
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「いいです。でも、座席が低くて、足が着く高さのものに」と答えた。先生は「いいですか？はいっ」と、生徒みたいに、直立不動で返事した。
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京都の奥さんから電話がかかった。主人が「自転車を送れ」と言うが、末期がんの主人がそんなものに乗っていいのか、ちょっとおかしくなっているんじゃないか、って。よーくお話した。
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二日後の午前、宅配便が見山先生のいる二階の１４号室に荷物を届けた。CDの曲は「さくら貝の歌」「白い花の咲く頃」「ゴンドラの唄」、せきをしながら、ちょっと音程がズレた先生の鼻歌が病室から廊下に流れる。
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先生は荷物をほどき、自転車の組み立てを始めた。仕事の邪魔をするようだったので、ぼくはチラッとのぞいただけで、外来に下りた。昼すぎに外来を終え、１４号室のドアを開けた。
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窓辺の床の上に、組み上がったばかりの、ちょっぴりちっこいピカピカの自転車があった。ぼくは初めて、病室で自転車を見た。二十八年間の臨床生活で初めて。
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見山先生が笑いながら鳥取の街を走っている光景が、目の前に浮かんだ。この感動って、何だろうと思う。
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★この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目人の目 野の花の一日」（徳永進）という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。連載タイトルと毎回のタイトルは、サイト独自に付す場合もある旨をお断りしておきます。
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