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第１７回 分からない、ってすごい
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｢先生、あのねえ」でしゃべり始める患者さんがいる。九十二歳の志野おばあちゃん。夜の十時、部屋の明かりが廊下に漏れていたので、戸を開けて入った。
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「ああ先生、あのねえ、私、眠られないの」とおっしゃり、枕元の月刊雑誌を手にして天井を見つめた。「小説読もうと思って、でもつまらない。ダメね、日本の小説。どうしてこんなことになったんでしょう」
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九十二歳とは思えない見識。何に対しても自分の考えがある。志野女史である。富豪の家で育ち、良家に嫁ぎ、幸せな家庭を築き、老い、夫と死別。あまりの高齢のため、日常の世話は家族には重荷。期間限定で当診療所に滞在中。
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以前にぼくが働いていた総合病院に救急車でやってきたことがある。急性心不全、ぼくが主治医だった。その縁である。
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「先生、あのねえ、たいがいのお医者さんって、何聞いても『大丈夫、大丈夫』って言うのよ。ねえ？」と志野女史。確かに、見破られたかとぼく。「ところが西谷先生はね、」。西谷先生とは、市内の熱心な内科医でクリスチャンである。
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「普段は穏やか。『大丈夫、心配いりませんよ』。でもね、少しでも何かあると顔が厳しくなって『大丈夫』とは決しておっしゃらない。そのりんとした顔、とってもいいの。私、あの先生の顔、好きなの」
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「あんね先生、」と女史は続ける。「東野先生は『大丈夫、大丈夫』ではやってるのよ。心配するな、気にするな、おれに任せとけ。全部『大丈夫』で、私、心配になってやめたの」。女史、結構あちこち行ってるんだ。
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「先生、あんねえ」と女史は続ける。一度入ると、ハエ取り紙に捕まったハエのように、なかなか脱出できない。かなりの難聴。一人でしゃべり、聞く耳は減りがち。
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「先生、あのねえ、息苦しくて救急車で入院したでしょ。あの時死ぬと思って、私『先生、大丈夫？』って聞いたの。そしたら『それは分からない』って。初めてだったの、『分からない』って答えた医者。普通は『大丈夫』よ。すごい医者、と思った。]
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「誰が言ったの？」とあらためて聞いた。「あなたよ。『分からない』ってすごいと思った。ほんとだと思った」。ほんとにそんなこと言ったのかなあ、とハエ取り紙の上のハエのぼく、モゴモゴ。
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★この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目人の目 野の花の一日」（徳永進）という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。連載タイトルと毎回のタイトルは、サイト独自に付す場合もある旨をお断りしておきます。
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