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第１６回 残り桜
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風小学校のならびに小さな公園がある。ブランコやすべり台、砂場があって、ぐるりに桜の木が植えてある。町内会の人たちの公園。道を挟んで反対側におもち屋さんがあって、季節季節のもち菓子を売っていて、よく買いに来ていたので、その公園の桜は毎年見ていた。
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よく晴れた平日の午後すぎ、その公園の前を通った。風小学校の近くで自宅療養をしている中野洋子さん宅への往診である。桜は満開を通り過ぎ、散り始めていた。風が吹いた。一斉に桜の花びらが舞い始めた。光の中をピンク色の雪片が舞うようだった。車は花吹雪の中を走り抜いた。
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「おじゃまですー、診療所ですー」。返事を待たずに上がっていく。ドアを開けると患者さんがベッドに寝ている。「ああ、先生」と患者さん。六十二歳。ご主人が階段を下りてくる。同じく「ああ、先生」。今年退職で終日付き添える。
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「ちょっと幻覚が出て、変なこと言うんです」と困り顔のご主人。「そんなことありません」と、かすれ声で怒り顔の洋子さん。著しい低ナトリウム血症が混乱の原因。末期。
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三日後、夜十時を回っていた。ちょっと立ち寄ってみた。「ああ、先生」とご主人。困ったような、うれしいような変な顔。「また幻覚が出て」とこぼされた。
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洋子さんに高校時代の大の仲良しがいる。角崎さん。寝込んでから会っていない。その人はお金持ちのお嬢さん、自分は貧乏人の娘、このことは幻覚じゃなくほんと。市内に住む角崎さんから電話がかかったのに、つないでくれなかったとご主人を責めたそうだ。
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「かかってない」と言うと、「自分で確める｣と言って、ベッドの枕元の子機を使って、角崎さんの電話番号を調べるため、「１０４」を回したらしい。間違えて「１１０４」と回した。かかったのが警察。事情を言ってわびた。彼女は納得せず、ご主人が直接電話した。友人はすぐ来てくれた。
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「目の前で、家内元気になるんです。声がしっかり出て、笑顔が出て。ほんとの仲良し、秘密がない。私には怒り顔なのに、不思議でした。角崎さんが泣かれて、家内も泣いて」
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角崎さんのご主人は二年前に亡くなった。ぼくが担当だった。中野さん、そのことを知っている。二人の涙はお互いに深い。家を出て風小学校の横の道を走ると、闇の中、公園の背の高い木に、桜がまだ残っていた。
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★この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目人の目 野の花の一日」（徳永進）という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。連載タイトルと毎回のタイトルは、サイト独自に付す場合もある旨をお断りしておきます。
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