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第八回 空っぽの脳 |
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勤務医だったころも、患者さんの家へ行くということが大切なことは知っていた。患者さんがどういうおうちで、どんな顔で生活してられるかと垣間見るだけで、何かが大きく変わる。そういう経験は何度もあった。
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あまり大げさに言うことでもないが、患者さんが平面図から立体図に変わるとでも言えばいいだろうか。そして、こちらは謙虚になる。開業医としてはまだ駆け出しなので、そんなに多くの往診があるわけではないけど、往診に行くと楽しい。いろんな道があって、いろんな家があって、いろんな部屋があって、いろんな家具や布団がある。
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瀬戸川シュウさん、九十九歳。あごのところがホロホロ鳥のようで、なんだか天然記念物のよう。その人がなじみの布団に座っているだけでうれしくなってしまう。よく生きていると思う。思わず、プルンプルンのあご下に触ってみたくなる。「いかがですか、変わりありませんか」あいさつ代わりにそう聞き、聴診して血圧を測る。
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いつもなら「変わりありません」という場面なのに「頭が空っぽ、になりまして昨日」とシュウさん。
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「朝起きたら、なーんも頭にないんです。真っ白の真っ白で、こんなこと初めて。ぼけたんかなあーと思ったんです」。九十九歳なのに今さらぼけたなんて、とこっちの方があっけにとられた。「どうしよう、困ったなと思ったんです。空っぽ」。シュウさんどう対応したんだろうと思った。台所の文鳥がさえずる。
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「友だちの名前を思い出そう、思ったんです」、この発想にびっくりした。
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「でも出てこないの。真っ白。そしたら雪の下からタケノコが出てくるみたいにね、キシノ、マツナガ、ヤベって出てきたんです。ヤレヤレ。友だちなんです。松永さんは道の向かい側のおばあちゃん、矢部さんも岸野さんも最近会ってないけど、生きてるかな」
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「男性？」と少し冷やかす。「いえいえ、みんな女性ですよ」。するとお嫁さんが「矢部さんも岸野のおばあちゃんも元気よ」と。
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「先生、きれいよ、とってもきれい。空っぽの脳って、生まれて初めてなんです。三分間くらいでしたけどほんとに空っぽ。なんともきれいでした」
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深々と一礼したくなった。開業医さんたちって、こんな風にして哲学往診いたんかと思った。新参者、魅セラレタ。
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★この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目人の目 野の花の一日」（徳永進）という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。連載タイトルと毎回のタイトルは、サイト独自に付す場合もある旨をお断りしておきます。
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