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第六回 レモンの口腔ケア |
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肺がん末期の五十九歳の岩谷さんをみんなでおふろに入れてピカピカにしたのに、まだくさい。くんくんかいでみた。腰の仙骨近辺の皮膚が赤くなっている。
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においはそこからする。ハサミで切開。ドドドッとうみが出た。消毒を何度もして薬を詰め込む。大褥瘡（じゅくそう）を前に、看護婦さんもぼくもフーとため息を漏らす。
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「おとといです。電話がかかって、ちょっと来てくれって」。京都からやって来た、今は無職の岩谷さんの弟さんが、途方に暮れたような顔で、ベッドサイドに立っていた。
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「痛い痛いって、わたしら素人には何がなんだか、さっぱり分からん。だのに兄貴、酒ばっかり飲んで」
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酒？と思った。がん末期なのに酒？まあいいじゃない、人それぞれみんな自由なんだと思い直した。三日後の夜、看護婦さんから呼び出された。岩谷さんが「帰る、帰る」と叫んで廊下にはい出てきたって。
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がん末期の岩谷さんはチューブぜーんぶ外して廊下にころんでいた。「天井を虫がはっている、だれかが壁の中に隠れている」。アルコールの禁断症状だった。
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ガンの末期症状とアルコール禁断症状。絵にかいたようなホスピスはしょっぱなから挫折。いや絵にかくのがいけない。どれも自由、なんでも自由。
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「もう私らあきらめてますから、先生の判断でどのようにでも」と広島から駆けつけたお姉さん、淡々。「トラックの運転手で、離婚して一人暮らしで、でも私や弟には電話だけはくれて」。点滴に薬を加えて、せん妄状態に対処した。弟さんも姉さんも「よろしく」と帰っていった。
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正月が過ぎると小降りの雪が何日も続いた。「国民健康保険証、探しても見つからないし、貯金通帳も見つからないんです、金も」と、帰ってきた弟さん。家族はとても複雑、やさしくて、残酷で、現実的。
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弟さんは京都の家をたたんで、岩谷さんの家に引っ越した。「何もできんのですが、顔だけは見せてやろう思って」。ホロ。でも、こんな言葉でホロッとしてはならない。臨床はもっとキビシイ。
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汚れてきた岩谷さんは目の前にいる。そうだ、と思った。岩谷さんの口腔をレモン水でこうして、こちらも指でこうして」と手ほどきした。
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| 「やあ、兄貴の口、きれいになりましたと弟さんはうれしそう。やったあー。これで毎日、いい仕事が無職の弟さんに見つかった。よ」 |
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★この原稿は、社団法人共同通信の「医師の目人の目 野の花の一日」（徳永進）という配信原稿を、サイト収蔵保存のため再録したものです。連載タイトルと毎回のタイトルは、サイト独自に付したものである旨をお断りしておきます。
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